昭和五十七年五月五日 朝の御理解
御理解第九十三節
氏子が神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。
合楽教会では表行を全廃して心行という、そこに焦点を置いてのお互い信心修行をさせて頂いております。勿論、心の行ということですが、その心の行ということを綿密にもうしますと、どんなささいな事柄であっても、そのささいな事柄に対して真剣に取り組ませて頂こうとする心だと思うです。心行とは。
そして取り組んでその事に対して御礼の言えれる心だと思うです。いや御礼が云えれる事の為に精進だと思うです。これはもう、どんな小さいことでも、今日はおかしなおかしなお知らせを頂いたんですけれどもね、あのう男子用の小便所ですね、前にこうそれこそしずくでも落とさんようにあの、してある便器がありますね。あそこの場面を頂いたんです。
それこそ、ひとしずくでも、その粗末にするなという風に、今日は私は感じたんです。したら、今日の御理解です。ですから、その大きなおかげを頂くと云うても、まずはね、小さいおかげを受けもらさんようにする事が、まず先決ですね、それこそ一しずくのものでも、そこにおし頂く心。粗末にしない心、汚い心ということになりますでしょうかね。
それには今私は合楽でいわれる、これがね、心行というか、も、本当に表行よりも難しいです。それに心にかけ通しにかけとるようであっても、あのおろそかになってることに驚くくらいですから、これをうかつにしておったらね、も本当にそこからおかげが持ってしまうだろうと思われるような感じですね。
どうでもま、おかげを頂きますことの為に、私共の心行の心にかける心行を、いわゆる一歩前進しなければいけませんね。一歩、もう一歩前進するね。例えば小便するでもそうです。一歩前進して参りますから、一しずくでもま、粗末にならんこぼさんようにできるわけでしょ。だからなら、一歩前進するということは、なら今までうかつにしておった事をうかつにしない心がけ。しかもそれが心行になるというのですから。
昨日は神愛会でしたから、皆さん先生方のそれこそお取次現場の生々しいお話、もう本当に最近先生方のお話が、いよいよ合楽理念に基づいたものの考え方。又はそういう修行をなさっておられる模様を聞かせてもらったんですけれども、確かに今日の御理解でいうと、も、いうなら水ももらさん信心修行ということが心がけておられるんだという風に思いました。
熊本の富永先生が発表しとられましたが、先だってからある教会の御大祭の講話の依頼を受けておられた。前からそれで、これは自分でいわれるんで透けれども、私は話が不得手ですからと、云うてま、合楽理念をむき出しに話しもできないから、自分が合楽理念を頂いて、いうならば、それをこなしていっておる、そのま、お話しさせてもらおうと、思うて、まあ数日前からねいろいろと心に留まることをこ、メモしてね、お話の芯になるようなところをまあ、書き抜きにしておられたというのです。ね。
そしていよいよその当日になって、ま、その教会に向かわれる途中で気がつかれたのは、あのメモをしておったのを忘れて来とったというのです。こりゃ、もう、まあ、思われたけれども、そん時に先生の心に感じられたのは、合楽のおや先生が大阪公演の時に、ね、いわゆる無技巧の技巧とか、何でしたか、いわゆる神ながらなあのお話をせよと、いうお知らせを頂かれなさった事を思い出して、も、今日はいよいよ神ながらでいこうと心を決められてまお祭りが済んだ、お説教にかかられた。
もうその後の反響がま、いわば素晴らしかった。いうなら手応えがあった。もう第一教会長先生がまあ、今日は驚いたと、これが第一声であったと。まあ、富永先生にこんなお話ができなさるちいうことはま、知らなかったち、いう意味の事じゃないでしょうか。して後々余韻のあるま、自分自身も有り難いし、話を聞いて下さった方達も、まあおかげを頂いておられる模様であったというお話を、聞かせて頂いたんですけれども、私あのう、こういうような考え方というのがです、あの目の詰まった信心を、そりゃ、人間ですから人情も使います。お話をせんならん、だから書き抜きも、けれども神様はもうそういうものに頼るなと、おっしゃっとられるように忘れておられるね。
そこからなら、合楽でいつもお話を頂いておった、こんなによう、話そうと、もうそれこそ無技巧の技巧でいこうという腹を決められてね、それが私は神ながらにお話ができられて、人に訴えるというか、まあ人の心に残るお話ができられたとこう思うです。ね。
私共の日々の生活の中にですね、そういう、いうならばあの心がけを持つことが、あのね、目細うする事じゃないだろうか。どういうお話させていただこうかと、心に思うただけで、もうできてくる事柄のひとつひとつをですね、心にかけずにはおられません。
汽車の中で、こりゃぁしもうた、メモを忘れたと思われたら、その汽車の中にポスターが目的地まで一直線というポスターがでとったそうです。だからそれで、私の腹は決まった。そして、親先生が大阪公演の時に、云うておられた事を思い出して、そのおかげを頂いた。ね。その目的地まで、その、一直線の心なんです。一日一日がね、他の事は考えない。もうその事だけに一生懸命なんです。心に裃を着けておけということは、心にきちっとした、いうならば形の上にも心の上にも信心さしてもらう。
そのきちっとした信心がですね、いうなら小さいな事にもおろそかにせんで済むおかげが頂けるのじゃないでしょうかね。
もう心行一筋と、心にその事を一直線に一日を過ごさして参ります。その手だてとして様々な、いうならば、面倒くさいと思うこともあるし、こんな嫌なことだなと思うような事もありますけれども、嫌なことだと思うことを有り難いと答えのでるまで心の中に練ってみる、いや練ること。それが心行なんです。
その事にいうならば一直線なんですね。一日一日をね、そういうひとつの心行に焦点を置いて、それに向かって一直線。そこには思いもかけない神ながらなおかげが頂けて、それこそ今日、私が御心眼頂いてね、その事を結局思い続ける、祈り続けるというところからね、それこそ一しずくでも粗末にせん、汚さんで済むおかげが頂かれる。
いうならば、小さいおかげを頂きもらさんようにするということ。それが育って大きな、いうならばおかげにもなって参りましょう。大きなおかげを頂く前提としてですね、いうなら大きな信心ということは、小さい神経を使うことだ、その神経も、もこの事を一直線で、も、心行一途で、参りますと、嫌だなとか面倒くさいなとある。
それでは、心行になれませんから、その面倒くさいとか、嫌だなと思うこともよくよく分からせて頂いて、合楽理念をひもとくと、ああ、これこそがま、先日の御理解じゃないけれども、これこそがよい大きくなることの為の特効薬だという風に分かってくるわけです。
ですから、それを有り難く頂くことになるのです。きちっとした、信心とはね、今日もいよいよ心行一途に突き進ませて頂こう、そこから裃を着けたような信心ができるね、いうならばまあ、あれは上野先生が頂いた御教えの中に、稲の葉にたまっておる露の一しずくでも、落とさんようにというようなのが、何かお知らせを頂いたことがありましたですね。
あれは「白露をこぼさぬ秋のうねりかな」というま、今日の御理解はそんなことであると思います。秋のいわゆる秋の実りを前にしたとき、なおさら一段とそれこそ、白露もこぼさぬ程しの心がけを持たしてもらう事は、今日もその事を一直線という風な頂き方だ、精進だと思うですね。 どうぞ